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   <title>奥土居帥心の単純･簡単思考</title>
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   <title>『五根の制御』</title>
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   <published>2010-07-25T12:00:00Z</published>
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   <summary>五根とは、人間の持つ五つの感覚器官です。 眼・耳・鼻・舌・身を制御することが、人...</summary>
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      五根とは、人間の持つ五つの感覚器官です。
眼・耳・鼻・舌・身を制御することが、人間の心を制御することにつながるのです。
本来、人間の心は、少欲であり静寂を保っているものです。しかし、外からの刺激
を受けることにより、心が乱され、平常心を保てなくなります。
お釈迦様は、弟子達に入滅にあたり、次のようにさとしています。
「無意味な議論やおしゃべりは心を乱すものである。修行者はそれを捨てるべきであ
るこれを不戯論と名づける」
それゆえに必要な議論は、ストレートにぶつけ合うのが良いのです。飾った言葉
（奇語）や二枚舌（両舌）を使ってその場を穏便に納めても、気の合う仲間と集っ
て、
悪口を言って、憂さ晴らしをして心を乱してしまうのです。そのような行為をお釈迦
様は戯論と名づけられたのです。
お酒の恐ろしいところは、アルコールの力により、戯論に勢いがついてしまうこと
です。お酒を飲む時も、戯論に十分気をつけて、口を制御する必要があります。
次に人との関わりを多く好まないことです。人と多く関わることを、良いことと思
われがちですが人と関わると、必ず心を乱されてしまうのです
しかし、わかっていても寂しさに負けて、人を関わりを求め、そして苦しみを生じ
させるのです。
我々は「友達を大切にしなさい」「たくさん友達をつくりなさい」と教えられ、そ
れが大きく心に刻み込まれます友達がいないこと、イコール悪になって、無理して付
合って、苦しむ人もいます。
人生で友は勇気を与えてくれる時もありますが、反面大きく傷つけられることもあ
るのです。人間は人と関わりを持つことで、心を必ず乱します。人と関わる時は、用
心して接することが大切で、必要最小限にすることです。お釈迦様はそれを「遠離」
と名づけられました。
五根から心に入ってくる欲望は数え切れないぐらいたくさんあります。
その五根の欲から身を守る方法は、一つしかありません　それは執着というものを
持たないことです。
もし、不執着という鎧を着たなら、五根から生じる欲の渦中にいても、心を乱され
ることがないのです。
自分の身を守ろうと、あれこれ策略することは、五根の欲の渦中で不執着の鎧を少
しずつ脱いでいるようなものです。気がつくとあれこれ五根の欲を鎧のように、身に
つけ、それが成功と勘違いしている人が多くいます。
五根の欲から手に入れたものなど何の役にもたちません　唯一、役に立つものは、
自分の気持を素直に表現し、それに精進努力することです。
ただ、精進努力すると執着が生じます。その時にちっぽけな自分を握っていること
に気づくことです。
この世の中、握ると必ず苦しみます。お金を握るとお金に苦しみ、子どもを握ると
子どもに苦しみ、地位を握ると地位に苦しむのです。趣着心を手放せばすぐ楽になれ
ます。
      
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   <title>『輪廻の法則』</title>
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   <published>2010-06-22T02:06:13Z</published>
   <updated>2010-07-22T02:07:32Z</updated>
   
   <summary>今月は生まれ変わりについてお話します。 私たちはどこから来て、どこに帰るのでしょ...</summary>
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      今月は生まれ変わりについてお話します。
私たちはどこから来て、どこに帰るのでしょうか。死後の世界は
どのようになっているのかをご説明いたします。
仏教の教えでは、人間は六道輪廻すると言われています。六道とは、六つの世界のこ
とです。悟りを開けなかったら、また生まれ変わるということです。
もし、今生で悟ると六道輪廻から外れ、仏教で言うと如来になるのです。お釈迦様
は弟子にご自分のことを「如来は」と言っておられたので、珍しく如来界から再び肉
体を纏い地上に出現された方なのです。ここで欲の世界に惑わされたらお釈迦様と言
えども、六道輪廻の世界に逆戻りになります。さて、お釈迦様は入滅される直前に弟
子達にこう言い残しています。「もろもろの苦悩から抜け出したいなら知足（足るを
知る）ことを見極めることだ」と説いています。
知足を具えていれば、例え貧しくても、心は満たされて、心の状態を安らかに保て
ます。
知足を具えていなければ、贅沢な暮らしをしていても心の欲望は尽きることなく、
心が常に不安定な状態が続きます。
人間は欲がある限り、これも欲しい、あれも欲しいと心は欲望に燃え、それを追求
しますが、目に見えるお金や物で幸せになることはないのです。逆に高慢な心を起こ
し悟りとは逆の方向に進んでしまいます。
ただ、貧しいことが良いと言っているのでありません。それらに囚われない心を持
つことを知足というのです。
さて、我々凡夫はなかなか輪廻の輪から抜け出せず何度も生まれ変わりを繰り返し
ています。
弘法大師空海は、生まれ変わりを次のように『秘蔵宝鑰』で表現しています。
「生生生生暗生始」
「死死死死冥死終」
六道輪廻の六道とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天上界の六界です。
人は生きた人生の結果、次の輪廻の世界が決まるのです。
これは、閻魔王に代表される六人の裁判官に裁かれ七人目裁判官の泰山王から判決
を受けるのです。七人目の泰山王に出合う日は四十九日目にあたる日です。仏教では
この日を満中陰と呼んで法事をします。初七日の裁判官は秦広王で聞き取り調査を受
け、二七日（ふたなのか）は初江王から殺生について調査されます　三七日は宋帝王
より邪淫の調査を受け、四七日は五官王から人を傷つけた言動について調べられま
す。
そしていよいよ五七日は閻魔王のお出ましです。閻魔様の持つ水晶にはは生前の悪事
が全て写し出され、言い逃れはできません。
変成王は最終審査官でそこでさらに審議は深められ最終報告を作ります。そして、
四十九日目（七七日に泰山王より判定が下されるのです。
この裁判官のお話は生きている私たちの為わかりやすく理解するために作られてい
ますが、肉体を脱いで魂だけになった存在は素直に自分の生きた生きざまを回想し
て、納得して判決を受け入れます。追善供養とは、残された者が一生懸命拝むことによ
り、裁判官に良い印象を与えるものです。これも魂は素直に受け入れます。形だけの法事
をしても、そこに残された者の観いがなければ、効き目はありません。僧侶は法事を
取り仕切り裁判官に残された者の願いを伝える役目です
さて、判決が『地獄』なら、次の生は地獄の人生が待っています。『餓鬼』なら貧
しい人生。『畜生』なら、エサを食べて寝てという人生。『修羅』なら競争・争いな
ど奪い合いばかりの人生。『人』なら修行の人生。『天上』なら知足を得るための人
生となります。「一生懸命努力しても報われない」「どうしてこんな不幸な家に生ま
れたんだろう」という答は簡単です。前世で知足を施さず、徳が積めなかったからで
す。
人生は輪廻しているのです。この生で良いことが無くても嘆くことはありません。
前世は優雅に暮らしていて、そのため知足を忘れてしまったからです。貧しくても知
足を心掛ければ来世は必ず人界・天上界に生まれ変わります。
      
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   <title>『０の法則』</title>
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   <published>2010-05-31T03:03:32Z</published>
   <updated>2010-05-31T03:04:45Z</updated>
   
   <summary>今月はゼロの法則についてお話します。人間が生まれてきた時は、身体一つで生まれ て...</summary>
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      今月はゼロの法則についてお話します。人間が生まれてきた時は、身体一つで生まれ
てきます。自分のものは何も持たされていません。
当たり前の話ですが、当たり前に目を向けることが
気づくチャンスを得ることなのです。僧侶は『私』という言葉を積極的に使いませ
ん。
なぜなら、私の物などこの世に中に存在していないと教えられているからです。　　
たとえば、自分が所有している土地は、登記上は自分の物ですが、犬やネコにはそれ
は通用しません。
日本ではシビリアンコントロールされていますので起きないとは思いますが、もし
軍事クーデターが起きたら、登記上の権利は守られるかどうかはわかりません。これ
らは何を意味しているかというと、自分の物という概念は、それを守る社会があって
こそ成り立つ言葉なのです。不変の真理でないということは、宇宙の法則では無いと
いうことを意味します。
さて、裸一貫で生まれてきた私たちですが、人生を歩むうちにたくさんの『私の
物』
を蓄えていきます。
それをいつしか、がっちり握りしめる人もいます。自分の物を握りしめた時に成長
は止まります。成功する人は自分の物を手放すのが上手な人です。
横浜市の前市長の中田宏氏や大阪府の橋下知事などは今の自分の地位を握りしめる
ことなく、変身を試みている素敵な政治家達です
人間は一度手にしたものを手放すことは勇気がいります。しかし、その勇気がない
とそれ以上、人生の向上はないということになるのです。
さて、ここからゼロの法則について説明します。
手放すのことが怖く無くなったら、新しいことにどんどんチャレンジできますその
ためにはゼロの法則が必要になるのです。
先に話した通り、人間は生まれて来る時、裸一貫です。原点はいつもゼロであるこ
とを忘れないことです　たとえば、お友達がたくさんできたとします。それはプラス
ですが、友だちとおつき合いするには時間を失います。また、人付き合いですから、
人間関係のトラブルも発生します。それらはマイナスです。しかし友だちが一人しか
いないと一人分のプラスしかありませんが、マイナスの出来事も一人分で済むので
す。
プラスとマイナスを足したらゼロになります。
これはどんな出来事もこの法則になっていますから根本的に物質的に幸せになるこ
とはできません。
多くの物を手にすると隠れたマイナスをプラスと同じ分だけ手にしているのです。
この世の中はシーソーのようになっています。お友達がたくさんいるとにぎやかで楽
しいこともありますが、その分煩わしいこともあるのです。一人しかいないと寂しい
ですが、その分煩わしいことも少なくなります。多くても少なくてもプラスとマイナ
スを足し算したら同じ答になります。答はゼロです。　もう一つ例を示しましょう一
流企業に就職したら物質的に大きなプラスです。反面、路上生活は物質的にはマイナ
スです。でも、自由という面から見たら、プラスマイナスは逆転します　路上生活者
は、自由度は大きなプラスになりますがお金という面では大きなマイナスになり、足
したらゼロになるのです。
たくさんの私の物を抱え込んだ状態では、多くのマイナスも抱え込んでしまってい
ることに、気づくと、がっちり握りしめていた手の力が抜けます。力を抜くと握りし
めていた私の物は無くなりますが、何も持っていない手は、次のものを掴むことがで
きるのです。
手放すことで失うことになっても恐れる必要はありません。どんな状態でも結果は
ゼロにしかならないようにできているからです。
      
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   <title>『信念を貫くとは』</title>
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   <published>2010-04-06T23:55:06Z</published>
   <updated>2010-05-31T03:03:16Z</updated>
   
   <summary>今月は信念についてお話します。 「信念を貫く」と聞くと何か良いイメージがあります...</summary>
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      今月は信念についてお話します。
「信念を貫く」と聞くと何か良いイメージがありますが、それが独りよがりだと人に
迷惑をかけるだけに終ってしまいます。
　最近、本当の信念を持った人が少なくなりました。信念とは、自分の考えを信じる
ことではありません人間が頭で考えることは、全てと言っても良いぐらい損得勘定ば
かりしています。
　考えるということは、結局そういうことなのです。　例えば、服を買う時、デザイ
ン・サイズ・価格など自分にとってその服を買うことが損か得か考えて買います。考
えれば考えるほど迷ってしまい、最終的には買う買わないを決める要素は値段になり
がちです。お店を歩いていて、直感的に目に飛び込んでくる服があります。それを何
も考えずに買うことが、実は信念なのです。
　念という字は分解すると今と心に分かれます。念とは今の心であり、信という字を
分解すると、人に言うになります。今の心を人に言うのが「信念」です。　　目に飛
び込んできた服を素敵と思った心を信じて買うことが本当の「信念を貫く」ことなの
です。
　せっかく、誰かがインスピレーションを与えて下さったのに、ほとんどの人はその
服に近づいて買うかどうかを考え始めます。
『素敵だけど自分には少し派手かな』って考えはじめたら、どんどん否定的になりま
す。そしておそるおそる値札をひっくり返します。三万円と書いてあります。
　その値段を見て否定感は最高潮に達します。
『やはり私には派手だわ』と買うのを諦めるのです。
　信念とは、人間が考え抜いた結果ではなく、仏様の教えを信じることなのです
　私は仏教徒ですから、仏様と表現しましたが、キリスト教の方は、神様になります。
　さて、仏様が「お前にはその服が似合うぞ」とインスピレーションを与えてくださっ
たから、そちらに目が向いたのです。三万円は少し高いですが、その服を着ることに
より、未来が変わるから、インスピレーションが来たのです。
　その直感に素直に行動することで、厄介な頭の世界の支配から、人間を開放するこ
とができるのです。
　人間の最大の長所であり短所であるのは、考える癖があることです。もし、考える
脳、大脳新皮質がなければ、煩悩もありません。
　考える必要がないのでストレスを受けることがなく病気になることもありません。
　私たちは、考えることにより、大きなストレスを受けています。例えば、人様から
「馬鹿」と言われたら、家に帰って『許せない！何であんな人に私が馬鹿呼ばわりさ
れなくてはならないの！』と腹が立って仕方がありません。
相手から馬鹿と言われたのは一回ですが、心の中で何十回、何百回と自分で「馬鹿」
と言われたことを思い出し苦しみます。
　自分で自分を苦しめている状態です。これもすべて考える頭が付いているから起き
る現象です。
　では、考える頭がなぜ付いているのでしょうか。神様は必要でない物は決してお造
りになりません。
　それは、直感通りに動けるかどうかの試しの為に付いているのです。神仏の存在を
信じているかどうか振るいにかけられているのです。
　ただし、直感通りに動いても、すんなりいかないこともしばしばあります。それを
乗り越えるために神仏は考える脳を人間に持たせたのです。
　先ほど話した通り、神仏の直感通りに動いても、いろいろな困難が待ち受けていま
すが、乗り越えられない直感は送って来ることはありません。
　私たち一人一人に頭のてっぺんにアンテナが付いています。そしてそのアンテナの
長さにより、受信できる難易度が決まってきます　アンテナは考える脳を使う人ほど
短く、直感的に動く人ほど長くなっています。アンテナが長いと人と会話していても、
次々と神仏からのメッセージが降りてきますので、頭の回転が早く見えますが、実は
すべて神仏からの、信号を受け取っているだけなのです。
　人間、頭の善し悪しなどほとんど差はありません。
      
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   <title>『觀いの世界』</title>
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   <published>2010-03-26T10:40:51Z</published>
   <updated>2010-03-26T10:41:30Z</updated>
   
   <summary>物事は人間の觀いで成り立っています。 大觀寺は大きな觀いのお寺になるようにと名付...</summary>
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      物事は人間の觀いで成り立っています。
大觀寺は大きな觀いのお寺になるようにと名付けました。
全ては觀いから始まるのです。
一生懸命努力しても報われない方がおられます。
　そのような方は自分のことを「運が悪い」と言います。しかし、運が悪い人はこの
世にはいません。運が悪いと生まれて来ることができないからです。実は運は自分で
引き寄せることができます。運を引き寄せるのに必要なものがあります。それが「觀
い」なのです。
　思い・想い・念いと似た字はありますが、私なりにすっきりする字は觀いなのです。
　物事を始める時に必要なものは、計画やアイデアや資金ではなのです。成功に必要
な物は「觀い」だけです。どんなに周到な準備をしても、絶対に成功するという保証
はありませんが、觀いがしっかりしていると絶対に成功するのです。
　では、觀いとは何でしょう。正体はあなたの身体に存在している生体エネルギーの
一種です。人間はなぜか、何かをやりたいと思います。動物はエサを獲得することと
子孫を残すこと以外に、積極的に行動することはありません。なぜなら
体内にそのようなエネルギーを蓄えていないからです
　何かをやりたいと思う時
脳から発案を「思い」と言います。心からの発案を「想い」と言い、魂からの発案は
「觀い」と言うのです。　脳からの指令は大体が損得勘定から発案されるものです。
心からの発案は慈悲や恋など感情に左右されるもです。そして、魂からの発案は、生
まれてきた理由そのものです。
觀いを使うとなぜ百％成功するかについてお話します。
　魂からの発案は、その人にとってみたら、かなり難しい課題です。
　それを頭に戻して考えると到底無理ということになります。
　例えば子どもの頃、総理大臣になりたいと觀ったとします。子どもには総理大臣に
なるための条件などの知識は少なく、なんとなく成れるような気がします。　段々成
長するにつれ、自分にはできないという結論を脳が出してしまい、総理大臣になるこ
とを諦めてしまいます。これで、その人は生涯総理大臣になることはなくなります。
　これは極端な例ですが、大なり小なりこのパターンで運を人間は逃しているのです。
　考えると運を逃すといっても過言ではありません。脳を使い過ぎると、ちっぽけな
人生になってしまうということです。損得勘定の得意な脳は、常に損か得かを判断基
準として、決断しています。だから、損をしないようにと無難な結論を出してしまい
がちです。
　さてここで脳とおもいの関係を図で整理します。
私たち人間は、受精後母体の中で、魚類・爬虫類など生物の進化を辿りながら人間の
形になっていきます
　同じように脳も奥から、爬虫類の脳、哺乳類の脳、霊長類の脳と進化のとおりかぶ
さっています。考えるとは、霊長類の脳、大脳新皮質を使う行為のことを言います。
一方、大脳辺縁系は感情を司っている脳と呼ばれています。そして脳幹は、生命活動
の維持を司どっています。私はここに魂とつながる何かがあると確信しています。そ
して、魂は生命や宇宙を造り出しているおおいなる存在＝神仏とつながっているので
す。
　物事を大脳新皮質で考えるということは、人間の知識のレベル以上は思いつかない
ことになります。反面觀いを実行するということは、魂から神仏へつながることにな
るのです。だから神仏の応援を受けることができます。考えもしなかったこと＝奇跡
が起きるのです。奇跡とは考えもしなかったことが起きることです
　だから、先に考えてはいけないのです。まずは觀いを実行することが大切なのです。

      
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   <title>『空気が読めないとは』</title>
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   <published>2010-02-05T15:12:16Z</published>
   <updated>2010-02-05T15:48:47Z</updated>
   
   <summary>最近空気が読めない人が増えた気がします。 空気を読むという流行語はどういう意味な...</summary>
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      最近空気が読めない人が増えた気がします。
空気を読むという流行語はどういう意味なのかを
今月はお話します。
秘密曼陀羅十住心論に書かれている教えに「鼻下に糞あれば香を嗅ぐともまた臭し」
という教えがあります。秘密曼陀羅十住心論は空海の代表的著述のひとつで、真言密
教の体系を述べたものです。
　心をありさまを十段階に分け、動物的本能のみの心から、次に道徳的な善心が起こ
り、それにより宗教的心が起こり、第十で無限の展開をもった最高の心の段階へ至る
という人間精神の発達段階が説かれています
　「鼻下に糞あれば香を嗅ぐともまた臭し」の意味は鼻の下に糞を付けているとどん
なに良い匂いの香を嗅いでもくさい匂いしか感じられない、ということです
　人間の鼻の下にぶら下がっているものはいろいろあります。学歴・お金・地位・勲
章・家・車などをお大師様は糞と例えたのです。
　例えば学歴の話を例にとってお話しましょう。高い学歴を持つために青春時代を勉
強に捧げた方はたくさんいます。親から高学歴こそ人生の成功を掴む第一歩と言われ
続け、それを信じて勉強を頑張った結果、志望校に合格し、良い就職先に恵まれ、安
定した収入と高い社会的地位を得て、人生万々歳のようですが、お大師さまはそれが
糞になっていないかと警告されているのです。目に見えるものは獲得しましたが目に
見えない心はどうかということです。
　学歴が高いことを鼻にかけて、学歴が低い人に対して、偏見の目で見ていないかと
言うことです。もし、そうならば高い学歴は糞になるということです
人を学歴という色眼鏡で見てしまうと、その方の本当の良さや能力を見抜く目が持て
ない人になります。そのような方が上司になると
学歴が低い人にとっては悲劇となるのです。
　目に見えるものは全てが糞になる可能性を秘めているので、十分用心しなければな
りません。
　お金がたくさんあるばかりに、お金のない人を見下していませんか？
　社会的地位が高いばかりに、社会的地位の低い人を見下していませんか？
　高い車に乗る理由は、優越感を感じるためではありませんか？あなたが優越感を感
じたら、相手は劣等感を感じていることを理解していますか？
　自分が努力して得たものは、神仏から努力のご褒美として与えられたものです　そ
れをどのように使えばよいのかを考えるために、人間には高度な頭という機能がつい
ているのです
　動物の脳は本能という機能しかありません。ですから他のことを思うという利他的
な行為をすることは基本的にはないのです。
　しかし、人間は違います。本能的に人の役に立ちたいという利他的にふるまいたが
る傾向があります。
　最近の流行語で「空気が読めない」という言葉があります。空気を読むとは、たく
さんの人がいる中で、たくさんの人の気持を察知することです。しかし、最近それが
出来ない人が増えてきているのです。
　なぜなら、鼻下に糞を付けているからです。
　いろいろな人が居ることを認めあい一つの集団にまとまるには「空気を読まなけれ
ばならないのです」
　自分の物差しを捨てなければ、人の気持を理解することはできません。
　私たちは目の前で困っている人をみると、助けたい何かして差し上げることはない
かと思います。行動に出るかどうかは別として、そのような利他的な行為を考える脳
を持たされていることは間違いないのです。
　全ての生き物は報酬を求めて生きているのです。動物は自分の報酬にならない行動
はしません。しかし、人間は報酬にならなくても人を助けたいという利他心を持って
いるのです。
　人に感謝される行為をしたとき、独特の満足感を感じます。それは人間は目に見え
る報酬よりも、目に見えない報酬に実は感動するのです。胸が熱くなるという状態で
す。テレビを見て感動するときは、必ず利他的な場面なのです。
　その満足感や感動は実は神仏からの報酬なのです。それを得ることが陰徳であり、
陰徳は隠して行うものなのです。貴方がした行為は人に知られなくても、神仏が見て
います。
　そしてあなたにご褒美を違った時に違った形で、与えてくださるのです。

      
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   <title>『法話』</title>
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   <published>2010-01-13T00:15:15Z</published>
   <updated>2010-01-13T00:17:44Z</updated>
   
   <summary>今年はいよいよ目に見えて価値観が変化する年になりそうです。 　いままでは、モノ・...</summary>
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         <category term="14)法話一覧" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      今年はいよいよ目に見えて価値観が変化する年になりそうです。
　いままでは、モノ・金・自分だけ・学歴・便利・快適などに価値を置いていました。
これは仏教で言うと末法の時代です。末法とはお釈迦様が入滅されてから二千年後に僧侶が修行の世界から離れ、戒律を修められなくなり、それとともに民衆の価値観がモノ・金・自分だけ・学歴・便利・快適に移ってしまう時代のことです。
　先日、篠山市で行われた人権学習会の分科会で、お葬式・お墓・戒名などがテーマ
で、グループワークを行い、それぞれグループの代表者からの発表を聞いていて僧侶
に対する不満がかなり大きいことにびっくりしました　都会では、すでに坊主離れは
顕著になっていますが、農村部の篠山でもこれだけの不満があることに危機感を感じ
ます。
　日本はいろいろな宗教がありますが、国際的には仏教国です。仏教国でありながら、
その祭事を執り仕切る僧侶が軽んじられていることは、大変由々しきことなのです。
　聖なるものが無くなったとき、民衆はモノ・金・自分だけ・学歴・便利・快適に目
を向けるしかなくなります。
　さて、末法の生き方ですが、民衆一人一人が本来の生き方を身につけるしかありま
せん。モノ・金・自分だけ・学歴・便利・快適のために生きて、得るものは目に見え
る快楽しかないのです。それを得て、死を迎え肉体から離れて魂になったとき、目に
見えるものはすべて失うのです。何のために生きたのか、ただひとときの快楽のため
に生があるなら、生き方は極めて簡単です。しかし、残念ながら人間の魂は生き続け
なければなりません。
　そして、常に向上しようとしています。その向上のために決められたルールが仏教
では戒律と呼んでいるのです。
　今回は私が説く五つの戒律をご説明します。
　戒律とは決して掟ではありません。破ったから罰があたるものでもありません戒律
は人間が本来持つ優しさを表現する手段です。
　ここで言う優しさとは、やさしい言葉、やさしい顔という目に見えたり、耳に聞こ
える優しさではありません。本当の優しさは厳しいものです。
　初めには生き物を慈しむことです。雑草も虫もすべておおいなる存在から生を受け
て生きる権利を持っていることを忘れないこと。　二つには、まごころを無駄にしな
いことです。して差し上げることと、していただくことは同じことであることを忘れ
ないこと。
　三つには、自分を守らないことです。指摘されたことを素直に受け取り指摘してく
ださった方に感謝することを忘れないこと。
　決して、自分を守るために相手を傷つけないことです。ただ、自分が正しいという
信念があるときは、自分の意見を堂々と主張してください。
　但し、それは自分のことでなく、他人を幸せに導く時だけに限られます。
　四つには、惜しまないことです。自分の知っている情報を隠したりせず、自分の持っ
ているもので他人を幸せにすることを忘れないこと。
　五つには、心から怒りを発しないこと。時には厳しい顔して相手と向き合わなけれ
ばならないことは多々あります。でも、心から相手を怒ってはいけません。叱る相手
も神仏の化身であることを忘れないこと。
　本当のやさしとは厳しいものです。しかし、現代は優しさを取り違えている人が多
いです。若い女性に、『どんなことをしてくれる人が優しい彼なの』と尋ねると「い
つでもどこでも車で迎えに来てくれる彼」「何をしても許してくれる寛大な彼」など
などです。そのような彼はただ自分が嫌われたくないだけで、本当に相手のことを思
うなら、違った行動になるはずです
　これから一年一年いき過ぎた物質社会から、抜け出す人が増えてきます。
　二〇一〇年はそのスタートの年になります。
　みんなが幸せに安心して暮らせる社会をつくるには一人ひとりが変わらなければな
りません。
　五つの教えを意識して生きることにより、貴方の魂はイキイキし始めます。
　他人の得は、自分の徳です。

      
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   <title>『形の法則』</title>
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   <published>2009-12-03T02:31:07Z</published>
   <updated>2009-12-03T02:31:47Z</updated>
   
   <summary>私たちは知らず知らず『形』にこだわっています。 現代人は無意識に目に見えるものに...</summary>
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      私たちは知らず知らず『形』にこだわっています。
現代人は無意識に目に見えるものに精神的束縛を受け身動きが
できなくなっているのです。

「器を大きくするにはどうすればよいのですか」とご相談を受けることがあります。
　方法は意外と簡単です。今の自分を手放せば良いのです。例えば社長の方が世の中
に貢献することがしたいと思ったら、それをすれば良いだけです。「でも、そんなこ
とばかりしていたら会社が倒産し、元も子もなくなってしまうかもしれない。」この
ように思ってしまうと、もう器が大きく成ることはありません。　　器は若い時は手
放しやすい物しかもっていないので成長しますが、人間は年齢がいけばいくほど、手
放したくないものが増えてきます。
　友人関係を広げたい人は
親友とのおつき合いを止めることです。同じ友ばかりと付合っていると、他人が近寄
れなくなります。そう考えると結婚とは正に男女関係の付き合いの器を停止させるこ
とですね。結婚して男女関係の噐を大きくすることは、家庭不和になりますので、十
分に覚悟して行動してくださいね。
「友人関係の輪を広げることはしたいけど、親友と毎日話せないのは辛いな。」と感
じる人は、それはそれで良いわけです。あれもこれも手に入れることはできません。
　お金の器を大きくしたい人は、今持っているお金を手放せば、確実に器は大きく成
ります。一例を申しますと、いつも新幹線の自由席に乗っている人が、五百円を出し
て指定券を購入し東京まで行ったとします。
いままで、座れるかどうか心配しながら、列に並んで急いで乗り込んでいましたが、
今回は暖房の効いた待合室で、すごしながら、電車が来てから席を立ちゆっくり乗り
込むことができました。別に五百円のお金に困った生活をしていた訳ではありません
が、お金は大切な物と思い込み、心が縛られていただけなのです。お金でゆったりと
したひと時を買うということを知るとお金は大切な物ではなく人生を豊かにする道具
にすぎないことがわかります。そして、五千円のお金に困っていない人は、グリーン
車に乗ってみることです。どう感じるかは、わかりませんが、心が豊かに感じれば、
これから電車はグリーン車に乗ることが、心の器を大きくします。
　形ある物はすべて人間が持つ目にみえない形に、吸い寄せられるのです。
　心地よく感じると、表情はどうなりますか。当然いい顔になります。座れるかどう
か心配している顔はどんな顔になりますか。当然硬い表情になりますよね。
硬い表情の人は、たくさんの私の物を握りしめて、必死でもがいているのです。
冷静になると、どうしようもない物ばかり握っていることに気づきます。
　では、どうすれば気づけるか。それは簡単です。ぎゅと握りしめた心を、緩めるだ
けです。ちっぽけな自分を開放してあげることです。もし、これがしたいというもの
があれば、してみることです。仕事に差し支えたらどうしようと考える必要はありま
せん。あなたの潜在意識が、困らないようにあなたを導いてくれます。決して、頭で
考えて策略を練ってはいけません。
　また、あなたの持っているものを惜しんではいけません。あなたがやりたいと思う
方向に進んでいくと、必ず光が見えてきます。しかし、この段階では傍から見たら苦
しそうに見えるぐらいの努力が必要です。でも、好きなことに向かっている時の努力
は、逆に楽しいものです。
　必死で楽しんで努力しているあなたの表情は、まわりから輝いて見えるはずです。
その輝きに形あるものが吸い寄せられるのです。
　人間は心臓が動いている限り、器を大きくできるのです。
「年だから」「子どもがいるから」「お金がないから」「病弱だから」などなどでき
ない理由は山ほどありますが、結局、いまの自分が捨てられないだけです。
　器を大きくするということは、自分を変えることなのです。だから、今の自分の状
態に満足したら、人生の成長は終りです。でも、ほとんどの人は、満足はしていない
のですが、変える勇気がないだけです。
　自分の持っているものなど、冥土に持っていけません。持っていけるのは、大きく
育った魂だけです。ぎゅと握りしめた心の手をゆっくり広げてみませんか。
      
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   <title>『霊性を高める』</title>
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   <published>2009-11-28T12:35:38Z</published>
   <updated>2009-11-28T12:38:44Z</updated>
   
   <summary>世界の宗教を考える時、日本人は多神教だと言われます。一神教の国の人々から見たら、...</summary>
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      世界の宗教を考える時、日本人は多神教だと言われます。一神教の国の人々から見たら、日本人の行動は異常に見える事でしょう。
　生まれたら神社にお宮参りし、結婚式はチャペルでウエディングドレスを着てバージンロードを父親と歩き、やがて人生の終焉を迎えて、僧侶に戒名をいただき、仏弟子となり浄土へと旅立つのです。家の中には仏壇と神棚が共存し、クリスマスを祝った一週後には除夜の鐘をお寺で突いて、翌日初詣で神社に参り、一年の無病息災をお祈りします。これが日本人にとってはスタンダードな行動なのです。
　宗教という観念が他の国の人々と違っていると言うことです。
　中国・韓国・東南アジア・チベットに広がっている仏教も日本だけ特別な宗教になっています。
　仏教国でお葬式に僧侶が関わるのは日本だけです。お釈迦様は弟子達に対して『僧侶は遺骸の供養など考えず真理の追求に専念すべきだ』という立場をとっていたからです。
　しかし、日本では鎌倉仏教の開祖達が民衆の中に分け入り仏教という教えを広め積極的に死者の弔いに関与し、やがて江戸時代には寺請制度となり、地方自治の原形となるのです。寺は役所となり、旅券発行業務として寺請証文の発行をし檀家という名で戸籍ができたのです。
　江戸幕府は、各家に仏壇を配置し、神仏習合し一神教的支配をしたのです。だから徳川幕府はキリスト教を弾圧する必要があったのです。寺側は政治的な利用を強いられ、霊性を向上する場でありながら、檀家を囲い込む必要もあったといえます。そこにお葬式やお墓が大きく関わってくるのです。
　日本の仏教は葬式仏教などと言われていますが、鎌倉仏教の開祖達は、両親や親族の亡骸を供養するという行為により、人々の霊性を高めようと必死で、外国の宗教である仏教を布教したのです。
　法然、親鸞、日蓮など鎌倉仏教の開祖達はみな密教のお坊さんです。厳しい修行を通して、体得した高い霊性により、当時の民衆の霊性をどのようにすれは高められるかに挑んだのです　そして日蓮は南無妙法蓮華経と唱えれば済われると説き、親鸞は南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に行けると説いたのです。当時の民衆は読み書きができません。お経のような難しい漢文を読むなどできない人々にはその教えはとてもわかりやすく手軽な方法だったのです。宗教で大切なのはお経を唱える事ではありません。また、お経を書き写すことでもなく、難行苦行に耐える事でもないのです。聖なるものに帰依することが宗教です。帰依する対象が偶像であれ、開祖・教祖・自然でも良いのです。
しかし、それにすがり、頼み、求める生き方では霊性を高めることはできません。　
聖なるものに帰依する時、生かされていることに気づきます。それが聖なるものです。
もし、あなたが信じている信仰の対象にそのような感じがなければ、それは宗教という組織に所属しているにすぎません。
　聖なるものは、人間に罰を当てることはありません。
罰が当たるとしたら、それはあなたの罪の意識が、現実になっただけです。この世は思ったことが実現する仕組になっています。
　罰は人間がつくり出した仕組の一つです。それは良い作用もしますし、悪い作用にも働きます。すべて人間の意識次第ということです。
　罰が当たるから対象を拝んだり宗教的活動しても、霊性を高めることはできません。
霊性を高めるとは、自身が神であることに気づくことです。これは一神教の人には絶対に受け入れることができません。なぜなら、神は一つだから、自分が神になることは許されていないからです。
　もし、あなたが神様なら他人を慈しむことは容易いでしょう。人に分け与えることは当たり前でしょう。
　自分が聖なる存在であることに気づくだけで良いのです。修行はそのためあるのですが、修行しなくても自分が聖なる存在であることを思い出せば、あなたの霊性は飛躍的に高まります。
　騙されたと思って実行してみてください。必ずあなたの中の霊が動きだし、人にやさしくなります。

      
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   <title>『己に勝つ』</title>
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   <published>2009-09-30T02:00:56Z</published>
   <updated>2009-10-02T02:08:06Z</updated>
   
   <summary>厳しい修行を満行するためには、己に勝たなければなりません。修行のほとんどが、 単...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suisin.jp/">
      厳しい修行を満行するためには、己に勝たなければなりません。修行のほとんどが、
単純なくり返しです同じご真言を何万回も唱えたり、一日中同じお経をお唱えしたり、
ただただ石仏のように座っていたりなどなどです。
　そのようなことを続けていると、心の中から悪魔のささやきが聞こえてきます
「そんなことしても何もかわらないぞ。やめてしまえやめると楽になるぞ。」
このささやきが行の続ける最大の敵です。
　人間は困難なことに挑戦するために生まれてきます
　ただ、やるかやらないかは個人の自由です。自分にとって困難なことをはできるだ
け避けたくなります。
　ほとんどの人は楽をして生きようとしますが、それが実は苦労の元なのです。
　苦労をかって出る人は、はた目には辛そうですが、本人は意外と苦労と思っていな
いものです。人間は偶然生まれてきたりしません。必要があったから生まれるのです。
必要あるということは、生まれて何かしなければならないことがあるからです。
　お金持ちの家に生まれたとします。裕福なのはその人の力ではありませんが親やご
先祖さまのお力で何不自由なく暮らせます。しかし、何不自由ない環境で努力するこ
とほど難しいことはありません。だから、お金持ちの家に生まれることは大変なこと
なのです。
　経済的に困窮した家庭に生まれたとしたら、チャンス到来です。とにかく、少しし
たことに、感謝できます。また、人生を自分で切り開くことが必然的に必要となりま
す。
　でも、貧しさは辛いものです。親を恨み、世間を恨み、人生を投げ出してしまう人
も少なくありません。
　お金持ちに生まれことと貧しい家庭に生まれることの意味は、その程度の違いです。
どちらの環境に生まれたとしても大切なのは己との勝負に勝てるかどうかです。
　裕福な家に生まれた人が事業を受け継ぐとうまくいかないことが多くあります　な
ぜなら、簡単にお金を使ってしまうからです。
　知恵を絞ったり、自分の身を削る前に、お金を使うという、楽な方法に流されてし
まうから、成功できないのです。
　また、貧しい家に生まれると「どうせ努力したって無駄」とはじめから諦めてしま
い、自分の可能性にチャレンジすることなく、平々凡々の一生を送ってしまします。
　生まれてやらなければならないこととは、社長になったり、総理大臣になることで
はなく、自分で決めたことをやり抜くことなのです。意志の力を鍛えることにより、
折れない、自分に負けない心を育てることなのです。
　そのような心が育ってくると、全てのことがある法則に則っていることに気づきま
す。
　その法則とは、すべては単純で簡単であるということです。意志の力が育っている
人にはこの意味がわかると思います。
　意志の力を育てるために考え出されたのが、密教の修行です。どれもこれも折れな
い心がなければ、逃げ出したくなるものばかりです。しかし、それに耐え抜いた時、
心は少し太くなっています。そして、さらなる厳しい修行へと挑戦できるのです。
　人生も同じです。仕事が辛くて転職したいと思っている人は、職場を変えても無駄
です。また、同じことが待っているだけです。
　自分がまずそこで働こうと思ったなら、コツコツとやることです。途中で人の所為
にしたりして、逃げ出してはいけません。
　結婚も同じです。この人と決めたら、日々コツコツ相手の為に、努力することを忘
れないことです。恋愛結婚は、結婚式が終着点のようになっているカップルが目立ち
ます。愛しあったから結婚するのではなく、結婚したから愛しあうのです。
　人生でやらなければならないことは、折れない心、負けない心をつくる意志の力を
育てることです。
　その心が育つと、自然と人に優しくなります。自然と物事に感謝できます。自然と
不自然なものに憤りを感じます。お金に負けない心も育ちます。大觀寺では密教禅を
通して意志の力を育てる修行をしています。　ご参加お待ちしています　ほうわ
      
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   <title>『黄金の法則』</title>
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   <published>2009-08-12T10:30:18Z</published>
   <updated>2009-08-12T10:32:16Z</updated>
   
   <summary>束縛されていると感じることはありませんか。人は無意識にたくさんの束縛を受けている...</summary>
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      束縛されていると感じることはありませんか。人は無意識にたくさんの束縛を受けているのです。
あなたの黄金時代はいつですか？と質問されたらどのように答えますか。青春時代・新婚時代・定年後などなどと考えてもなかなかしっくりきません。
　そもそも黄金時代とは、どんな時代を指すのでしょうか。それは文字が表わす通り光り輝いている時代です。人間が光り輝くとは束縛を受けないという生き方を言います。
　青春時代は素晴らしい時代ですが、思春期でもあり常に異性に対する無意識の束縛を受けます。
　新婚時代は楽しく、いきいきした時代ですが、結婚相手の束縛も強く受けます。
　定年後、いよいよ気楽に生きる予定でしたが、体力的な衰えや諸般の出来事に悩ませられる事態が次々起きてきます。
　人間は、欲しいという感情を起こすと、欲しいものは遠ざかるように仕組まれています。自由が欲しいと思い、家を出て独立します。
小さなアパートでの暮しで親の束縛から開放され自由気ままに生活を送る予定でしたが、ある日恋をします。気がついたら、アパートで恋人と同棲生活になってしまい、親以上の束縛を受けることになります。そして子どもが生まれ、ますます自由を奪われていきます。仕事を辞めたいと思っても家族の為に忍の一字で我慢をします。
　人生を歩めば歩むほど我慢という種を身体に植えつけます。我慢の種は花を咲かせる日をじっと待っています。
　我慢の種はどのような花を咲かせるかというと赤い怒りの花。黒い屈辱の花。ピンクの嫉妬の花。などなどです。
　我慢の種が身体につまってくると、身体が重くなってきます。倦怠感という症状に悩ませられるのです。
　我慢の種が体内で花を咲かせると医学で治せない病気になります。
　この我慢の種を体内から放出させる方法があります。後でに詳しく書いておきますので、ぜひお読みいただき実践してみてください。
　さて、束縛されずに生きていた時とは、生まれた時から二歳になるまでぐらいの時です。おしっこを漏らしても、真剣に叱られることはありません。しかし、最近、トレーニングパンツなどをはかせて、早くおむつをとる訓練をさせる親がいます。パンツでおしっこをしてしまうと「どうしてママに教えてくれなかったのと叱るわけです。答は教えることができなかったからというしかありませんが、親の悲しい顔を見て、子どもは自信を失うのです。おむつは布おむつを使うと自然と取れます。個人差がありますから、決して焦らないことです。
　実は人間の黄金期は０歳から三歳になるまでなのです。この時代の記憶はほとんどの人はありません。なぜなら、何の束縛を受けず、やらなければならないこともなく、自由気まま生きていたから、大脳の左側を動かす必要がなく、記憶がすべて右脳に蓄積され、やがて大人になるにつれ左脳優位になり、六歳頃には思い出せなくなるのです。
　人間は三歳頃になると、言語を獲得し、言語を中心とした思考回路に変わってきます。三歳頃に反抗期と見える行動が出るのは、優位脳が右から左にスイッチするからです。自我の芽生えでもあるのです。反抗期はあって正常です。
　ですから、早い時期の教育は、絶対に強要したり、答を聞き出そうとしたり、教えようとしたりしてはいけません。そうすると黄金期が早く過ぎ去ってしまい、金の含有率の低い人間になってしまいます。
　私達は、黄金期を過ぎると徐々に、いろいろな制限を受け、それに身の丈を合わしながら、生きようとしています。スーツを買おうとして、お店に入り試着した服の袖が短いため、長くして下さいと店員さんにいうと、何を言っているんですか、腕を引っ込めれば丁度になりますよ。と言われ肩を上げて腕をすぼめてみます。店員さんに「ちゃんと服に合わせる事ができましたね」とほめられますが鏡を見たら不格好な哀れな姿です。このように私たちは、黄金の肉体に我慢というコンクリートを塗り固めて生きているのです。　だから、年齢を重ねる度に重くて息苦しくなるのです。人間はみな黄金です。それを忘れないでください。価値の無い人間はいないのです。
人間はすべて自由という黄金時代を核として生きているのです。人間が潜在的に自由になりたいのはそのためです。
　文明が進めば進むほど、色々な社会規範が必要となり、束縛が始まるのです。
　その決まりや社会的常識により自由に生きれないから苦しみが生まれます。
　人生を楽しんでいる人は、できない理由を口にしません。どうすればできるかを探ります。そうすると黄金時代の感覚が蘇ってきます。我慢というコンクリートは少しづつ剥がれて、人生が光り輝いてくるのです。
　前段で我慢の覆いを外す方法があると書きました。私の体験をもとに書きますのでぜひ実践をしていただき、我慢のコンクリートを剥がし、我慢の種を体内から放出してください。

実践編
まず、頭の自縛を解き放たなければなりません。脳みそは規則、常識、こうであらねばなどなどでがんじがらめになっています。ボンレスハム状態です。その自縛を解き放つ方法は大きな声を出す事です。一人で車に乗って大きな声で叫んで下さい。「ありがとう」または「幸せ！」が良いです。いま、感謝できなくてもいま不幸でも、ありがとうや幸せと叫ぶ事により、脳は過去現在未来が一体化しているので、勘違いします。大きな声は脳を縛っている糸を切ってくれます。
　次に静かに心を落ちつけることです。
方法は目をとじ、自分を客観的に観察するのです。
　お釈迦様は、悟りを得るためにまず瞑想という修行をされました。瞑想は深い境地まで達し欲望を消すことに成功しましたが、瞑想をやめれば元の木阿弥になり、解脱まで達することができないと考えられたのです。次に苦行の修行に入られました。六年間に及ぶ苦行により欲望を滅する感覚を得ましたが、生存欲から自動的に生み出される欲望を消すことはできないことに気づきます。そこで次に、存在する自分の肉体を徹底的に観察する修行に入ったのです。これが有名な菩提樹の下での瞑想なのです
　七日間の瞑想で、すべての因果関係を解き明かし、すべての欲望の原点である無明を滅する智慧をあみ出したのです。
　この徹底思考型の瞑想法は、ひっそりとミャンマーで受け継がれ存在していたのです。ヴィパッサナー瞑想と呼ばれているものです。
　では、実践方法を説明します。第一段階は、思考を集中することから始めますまず、自分の好きな座り方で座ります。椅子でも結構です。最初から座り方にこだわる必要はありません。最終的には結跏趺坐か半跏坐という仏像のような座り方でないと長時間座れないことに気づいてきます。
　できれば、最低でも一日に一時間はこの修行に時間をとってください。私は、一日十時間、連続十日間を七回行いましたので合計で七百時間座りました。
　どうしても一時間できない場合は許される時間で結構です。用意するものは、タイマーです。
　まず、できるだけ静かな場所に座ります。タイマーを一時間もしくは修行できる時間に合わせて、修行をスタートします。修行を始めたらタイマーが鳴るまで目を開けてはいけません。もう一つ約束ごとがあります。最初にとった姿勢を保つことです。身体を動かさないことです。
身体を揺すったり、足を組み換えたり、かゆくなった場所をかいたりしてはいけません。
　目を閉じて行うことはただ一つです。
上唇を底辺として、鼻に三角形のイメージをします。そして三角形の中で起こることだけに集中します。呼吸を無理に強くしたりしてはいけません。集中してくると、鼻孔に空気が流れている感覚が読み取れるようになります。
もし、鼻がかゆくなってきたら、かゆい場所に意識を移し客観的に観察します。例えば「今、鼻のてっぺんを中心として、１センチ四方までかゆみが拡がっている」という感じです。身体に起きた感覚を観察するのが目的ですから、手でかいたりしてはいけません。もちろん身体を動かさないルールですから、かけませんが、ついつい自分にとって不快な感覚を消してしまおうと反射的に手がでてしまいますので、しっかり自身を管理してください。
　最初の段階では、三角形以外の場所にかゆみや痛みなどの感覚が襲ってきても無視して修行を進めて下さい。１時間集中できるようになると、次の段階に進みます。第二段階では、三角形の範囲を取り払い、身体に起きる感覚を観察します　かゆみ・痛み・だるさなどです。それを客観的に観察します。そのとき、決して感覚に対して嫌悪感を感じないことです。自分にとって心地よい感覚とそうでない感覚と区別している間は修行はとまったままです。
　それがしっかりできるようになると、第三段階に進みます。今度は、皮膚感覚から離れ、内臓を観察します。目に見えませんが、イメージを使うと、感覚が生じていることに気づき始めます。全身を全て観察し終ったとき、貴方は一つの悟りを得ることができます。それがパンニャー（般若）イコール智慧です。そしてあなたは仏陀となり、六道輪廻から外れ解脱し、修行の完成を迎えるのです。
　さて、表面で書いた我慢の種の飛ばし方を説明します。一時間身体を動かさないで座っていると、我慢の種がある人は種が動き始めます。そして種が埋まっている場所から熱や痛みが起きてきます。
　しかし、感覚を嫌わず痛みの状態を客観的に観察をしているとすっと感覚が消え去ります。種が空中に放出されるのです。痛みや熱は放出のための作用です。
　痛みが消え、やれやれと思っていると違う場所が痛み始めます。最初はこのくり返しが続きますが身体が軽くなってくるのがわかります。さて、大觀寺では密教禅という形で、ご指導させていただくことになりました。詳しくはこころ新聞４１号に記載しておりますので、皆さまのご参加をお待ち申し上げております。

      
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   <title>『共時制』</title>
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   <published>2009-06-01T00:33:19Z</published>
   <updated>2009-06-01T00:37:52Z</updated>
   
   <summary>打合せもしていないのに、離れた場所で同じことが起きることを共時制といいます。航空...</summary>
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         <category term="14)法話一覧" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suisin.jp/">
      打合せもしていないのに、離れた場所で同じことが起きることを共時制といいます。航空機事故が起きると世界中で事故が起き出すことがあります。偶然の一致として片付けられないことはよくあることです。
　私は「この世の中に偶然起きるということはない」と定義して生きています。すべては必然的に起きると定義しておくと宇宙の仕組や神々の仕組がよく理解できます。
　私たちは偶然に両親のもとに生まれてきたのではありません。それを裏付けるお話があります。三歳ぐらいまでの子どもに、生まれてくる前やお腹の中でのことを聞くと、記憶していることが多々あります。子どもの話ですからデタラメと始めから取り合わない人はそれまでです。しかし、おもしろいと思って聞いていると子どもたちの答は共通の話がたくさんあります。
『空の上から誰をお母さんにするか探していた。』
『生まれる時は赤い光がピカリと光って落っこちた。』吸引分娩で生まれた子どもは『まだ出たくなかったのに引っ張られた。』などなどです。胎内記憶については
たくさんのお医者さんが研究中ですので、いずれ明確になるでしょう。
　
 胎内記憶を前提に話を進めますと私たちは両親を選んで生まれてきているのです。
親に「勝手に産んでおいて」とか「こんな家に生まれたくなかった」なんて言えないことになります。
　親から「勝手に来たのにえらそうなことを言うな。」と言われればそれまでです
ですから、親は大切にし、親の言うことには素直に従うが正しいのです。では、親を選ぶ基準は何でしょうか。もし、肉体をまとった状態では、お金・地位・円満・容姿などなどでしょう。しかし、上から探しているのは魂ですから非常に柔らかい気体のような状態です。
　それが、この世に生まれると肉体という固体に変化します。だから、生まれるときに子どもは「落っこちた。」と表現するのです。
一旦魂が肉体に入るととても大きな制限を受けます。
空気を吸わなければならない。食べ物を食べなくてはならない。排泄物を出さなくてはならない。寝なくてはならない。魂としてはとても窮屈な状態に閉じ込められているのが生きると言う状態です。だから、本能的にお金に執着してしまうのです。空気・排泄物・睡眠はお金が無くても保証されています。しかし、食べるという行為は、現代社会ではお金が必要になります
　それが人々の心を狂わしているのです。でも、自分で食べるものを作ればそれも解決されます。
　魂の状態の時には何を基準としているかと言うと『学び』なのです。この両親に生まれることにより前世でやり残したことを実行するのにもっとも最適な人を探しているのです。もし、前世で人に施すことができなかった人は、次の生でそれにチャレンジします。その時、両親がお金持ちが良いか？それともお金に困っている家庭が良いか？

　お金持ちの家に生まれたら、人に施すことは簡単にできるかもしれません。難関試験を受けるのに、答を知っているようなものですそれではわざわざ生まれてくる必要がなくなってしまいます。でも、百円のお金に困っている家に生まれた人が他人に施
すことは非常に難しいことです。本当の生きる意味を知らなければできることではありませんだから価値があるのです。
　
困難こそ生きる価値であり目標なのです。それから目を反らしてしまうとまた同じ課題を持って生まれ変わりを繰り返さなければなりません。輪廻転生というのはそういう状態を言います。ぐるぐる同じところを廻っているだけという意味です。物質的に恵まれた家に生まれるというのは、魂的には非常に勇気のいることなのです。何でも手に入ったら努力しません。そして傲慢になってしまいますそれを承知で自分の課題にチャレンジするわけですから内面は大きな苦労が伴います。

さて、共時性から少し話がずれているようですがいつも下書きはせず、ただただキーボードたたいています。今の時代は人類にとっては物質文明から精神文明に移行する大転換期です。その時に同じ時代を生きている私たちはお空の上で誓いあった仲間です。同じ使命を持って生まれて来た同士なのです。

      
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   <title>『宇宙の歯車』</title>
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   <published>2009-05-21T00:05:34Z</published>
   <updated>2009-05-21T00:07:46Z</updated>
   
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      目に見える宇宙を大宇宙と呼び、人間の体を小宇宙と呼びます。大宇宙と小宇宙の歯車が噛み合う生き方が幸せと言うものです。
　大宇宙と小宇宙の関係を簡単に説明すると、胎児が暮らすお腹の中の羊水の塩分濃度と古代海水の塩分濃度は同じ０・８５％です。
また、月の公転周期＋満ち欠け周期を足して２で割ると二十八日で、女性の生理と同じ日数になっています
　陣痛誘発剤などを使用しない助産院では、満月の日に産気づきます。
　人が自然に死を迎える場合は、新月の日に息を引き取ります。これらは、人間の命が天体の動きや自然の営みと連動していることを示すものです。
　この天体と自然の大いなる運営の歯車に合わせて生きることが、自然体で生きるということです。
　気学などの占いが当たるのも、天体の位置から統計学的に生み出したものだからです。
　このことを理解して生活をすると、苦しむことがない生活を送ることができます。
言い返しますと、苦しむ生活を送っている人は、宇宙の歯車と自分の歯車が噛み合ってない生き方をしているのです。
　宇宙や地球の営みの原則は与えることです。太陽は無償で光りと熱を与えてくれています。
　大地は無償で植物に栄養を与え、それらにより、動物の命が保たれています。
　これが宇宙の歯車が回転する仕組みです。
　聖書では「与えよ、そうすれば与えられる」と教えています。
　仏教では六波羅蜜でまず布施行を説いています。
　まず与えることにより与えられるという法則で宇宙が運営されていることに気づくことが大切です。
　見返りを求めない行動のみ、宇宙の歯車と噛み合うのです。
　私たち小宇宙は、大宇宙から多くの無償の愛を受け取っています。小宇宙と大宇宙は常に対等の関係です
　小宇宙の私たちは、大宇宙から与えられたわけですから、今度は大宇宙に与えなければなりません。これで対等の関係が成立します　私たち人間は一人ひとりは、ちっぽけな存在に、見えますが、実は宇宙と対等な関係なのです。だから作用しあうのです。
　ゼンマイで動く時計にはいくつかの歯車がついています。大きな歯車であろうが小さな歯車であろうが、一つの歯車が噛み合わないと時計がうまく動かなくなるのと同じ関係なのです。
　では、私たちは何を大宇宙に与えているのでしょうか。環境破壊・戦争・経済競争・学歴社会・人権侵害などなど、便利快適を追求しながら個人の幸せを満足させるための奪い合い続けています。
　結果人々の顔から、笑顔が消え不安が増幅し、恨みあい罵りあいなど苦を発生させる社会をつくってしまったのです。私たちが大宇宙と同調するには、まず奪い合いをやめることです。貴方と対応しているのは大宇宙だけです。他人の小宇宙と歯車は噛み合っていません。しかし、奪い合いをすることにより、歯車が噛み合い始めます。
大宇宙と一対一の関係だったにも関わらず、奪い合うことにより、他人の小宇宙とも歯車を合わせことになり、単純だった関係が、複雑怪奇になってしまうのです。
　もし、自分がこうしたいと思えば、そうすれば良いのです。家族・会社・友人すべて関係ありません。大宇宙とだけ歯車を合わせれば、必ず成し遂げることができます。
勿論、努力は必要です。しかし、そこに苦労はないのです。在るのは喜びだけです。
　私たち小宇宙が大宇宙に与えるものは『喜び』のエネルギーなのです。
　喜びのエネルギーこそ大宇宙を動かす原動力なのです。
　自分という存在が大宇宙と匹敵しているということの自覚がないので、小さなことに執着し大宇宙と歯車がずれてしまうのです。大宇宙と歯車が合うと行動は単純になり、簡単に成し遂げられます。
　そこにある法則は『与えよ。そうすれば、与えられる。』それだけです。
　あなたが今できることが何かありますか。何も無い方にも笑顔は施せます。仏教では和顔悦色施（わがんえつじきせ）と申します。
　すれ違った赤の他人があなたの何げない笑顔で幸せを感じることを無償の愛というのです。（こころ新聞平成２１年５月号より）

      
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   <title>『悟り』</title>
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   <published>2009-01-25T02:19:32Z</published>
   <updated>2009-01-25T02:21:26Z</updated>
   
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      今月は『悟り』の学び方についてお話します。
悟りを学ぶという表現が正しいのかどうかは別として、まず、人生の２０才までは、道徳を学ぶことが大切です。そして、２０才代から３０才代は、努力あるのみです。
この時期に悟りを意識する必要はまったくありません。伸びることだけに集中することが必要です。
このとき、２０才まで学んだ道徳との葛藤を生みます。
この時どちらを選択するかが重要ではなく、葛藤することが大切なのです。
４０才台は責任を持つことを学ぶ時期です。
そして、５０才台は在る程度いままでの人生の結果を生み出さなければなりません。
そして６０才台から『悟り』を意識することです。何かをしなければという焦りは必要ありません。
日常の普通の生活を通して、何を考え、どんな行動をしているかを客観的に自分を観察することが大切です。そこに、道徳を越えた真理が見えてくるのです。
　人生は時間の中に存在します。自分が生きて来た道以外に悟りを見つけることはできません。
それを忘れないでください。

      
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   <title>『虚空蔵』</title>
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   <published>2008-12-23T02:02:04Z</published>
   <updated>2008-12-23T02:03:50Z</updated>
   
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      今月は、法話のアップが大変遅くなり、楽しみにしてくださっている皆様に、まずは
お詫び申し上げます。
　
   さて、今月は『虚空蔵』（こくうぞう）についてお話します。
虚空とは、宇宙です。蔵とは金庫です。宇宙の金庫が虚空蔵です。密教の修行に虚空
菩薩求聞持法というものがあります。虚空菩薩を本尊として、虚空菩薩の真言（のう
ぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそわか）を一日一万遍、１００日間
で１００万遍お唱えし満行するものです。それを満行すると、虚空の蔵が開き、観自
在の人間になれるというお修行です。いつかはチャレンジしてみたいと思いますが、
真言を唱えるだけで、一日８～１０時間かかりますので、なかなか大変です。一日も
途切れていけませんので、今の私にはできません。でも、毎日の生活を一心不乱に過
ごしていれば、同じことではないかと思いますが、１００日間気を抜かない生活を送
ることも大変なことですね。
　虚空蔵菩薩様は、身にありとあらゆる宝石を付けておられます。これは、手に入ら
ないものはないという象徴で、金品が大切という意味ではありません。
　では、どのようにすれば、宇宙の金庫を開けることができるのでしょうか。それは
意外と簡単です。でも、簡単なことができないのが、人間ですが・・・。その方法と
は、自分を苦しめないこと。自分を大好きになること。そして、常識にとらわれない
ことです。
その３点が出来はじめると、金庫の扉が少しずつ開き始めます。ぜひ、みなさんチャ
レンジしてみてください。
今年も、私のホームページをご覧くださりありがとうございました。来年はホームペー
ジを改定する予定です。春頃には、アップできると思いますので、楽しみにしてくだ
さい。良いお年をお迎えください。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合掌

      
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